諸事情により、ブログが休眠中となっています。
にも関わらず、当ブログに対してアクセスがあり、とても感謝しています。
また、公開のものと非公開のコメントもいただきました。ありがとうございます。

先日頂戴したコメントは無記名でしたが、地域猫活動に対する誤解にもとづく代表的なご意見と思われるので、単にコメント欄で回答するのはもったいないと思い、記事にとりあげさせていただきます。
地域猫活動の本質的な部分にかかわる良い質問だと思うのですが、ただ、冒頭の「ネコ好きってホントに頭おかしい人が多い」という暴言は、発言者やご意見の値打ちを下げちゃうので残念ですね。

コメントをいただいたのは、2012.11.02の「公園課が地域猫を拒む理由」に対してです。
そのままそっくり引用します。

「ネコ好きってホントに頭おかしい人が多いんですね。公園課の課長さんも可哀想に…
 そもそも「地域猫」なんて概念が、以下の点からネコ好きの自己満足にしか思えない。

1、不妊手術をしようが、それらのネコは長くて10年くらいは生きるだろう。その間、確実に一部の地域猫は周辺で迷惑行為をするだろう。

2、そもそもその地域のネコを全て捕獲し、不妊手術を施す事は現実的に可能なのか?

3、2と関連するが、外での餌やりをすることで、少し離れた地域のネコを呼び寄せる事にならないのか?それらも全て地域猫にしていく事は可能か?

ざっと考えただけでこれくらい疑問点があります。これらの点についてはどのようにお考えですか?」

いただいたコメントはここまでです。
答えは明確です。

1 ご指摘のとおり、避妊去勢手術をしても、猫は4~5年、長い場合は10年くらい生きています。だから、手術により繁殖を防止するとともに、現にいる猫がトラブルの原因とならないように適正なケアをすることが必要です。適正なケアというのは、手術をしたあと、給餌・後始末・周辺美化を行うことです。大雑把にいえば、そこが手術だけでおわるTNRと地域猫の違いです。野放しにするより、適正なケアをした方がトラブルの発生を抑制できることは明らかであり、地域で取り組むことによって糞害などが解消された事例も少なくありません。
具体例をあげろというご意見があるかもしれませんが、遺棄や虐待が発生する可能性があるため、ネット上で具体的な地域は申し上げられません。ただ、猫の数の減少やトラブル防止について地域猫が効果があるということは多くの自治体が認めていることであり、昨年の動物愛護管理法改正の際の付帯決議にもその旨が述べられています。

2 「地域」の範囲にもよりますが、一定地域の猫を全て捕獲し避妊去勢手術を施すことは不可能ではありません。しかし、そのためには、直接に活動にあたるボランティアさんの大変なご努力とともに地域の方のご協力が必要です。猫の数は通常、町会規模の範囲で数匹から30匹くらいでしょうが、町会をまたいで一定期間に80匹、100匹と捕獲・手術されているような例もあります。
 ちなみに、繁殖予防の世界では70%ルールというものがあり、不妊処理が施された個体がその集団の7割以上であれば、集団の個体数が減少していくそうです。

3 餌やりをすることによって、他の地域の猫を呼び寄せないのか。この問題は地域猫活動を考える上での大きなポイントだと思います。答えは、正しいやり方で給餌をすれば、基本的に他の地域の猫を呼び寄せることはありません。正しいやり方で給餌をするということは、目の前で餌を与え、食べ終わったらすぐに後始末をするということです。餌を放置しておくと、人間が知らない間に他の猫をおびき寄せる可能性があります。
 正しく餌やりをすれば、そのことによって猫の状況を把握することができ、避妊去勢手術も促進されます。これは餌を与えている側の人もキチンと理解しておく必要のあることで、猫の空腹を満たすためだけでなく、猫を管理(状況を把握し、コントロール)するために餌を与えることが必要であるということは、当ブログでも繰り返し発言していることです。

地域猫活動は、猫好きの自己満足などではないですね。むしろ、地域の飼い主のいない猫の問題を給餌者だけの問題としているところが問題であって、捨て猫が多ければいくら避妊去勢手術の努力をしても猫の数は減らないし、飼い猫を避妊去勢手術しないまま放し飼いにしているような人もいるし、自分の家の庭で飼い主のいない猫に餌を与えているだけの人もいます。
給餌者は目立つために矢面に立つことが多いけれど、給餌者がいくら適正な活動をしても地域から猫が供給されることが多ければ、猫のトラブルはなかなか減らない。地域の理解と協力が必要というのは、そういうことだと思います。

時間的にはまだ厳しい状況が続いているのですが、なんとかブログを再開させたいとは思っています。
よろしくお願いします。

(たぶん、近日中に再開)


【ブログランキングに登録しました。よろしければ、クリックで応援をお願いします】
 
地域猫という考え方は、「排除から共生へ」「殺すことから生かすことへ」の発想の転換だ。いや、長いスパンでみれば発想の転換というよりは、回帰かもしれない。地域猫が成立するかどうかは、極めて単純な1点にかかっている。それは、地域住民が野良猫を許容するかどうか、という問題である。

日本人が生活の快適さを凄まじい勢いで求めた経済の高度成長の時代以前は、野良猫とも飼い猫とも区別のつかない猫があちらこちらに見られ、それを怪しむ人はほとんどいなかった。猫は多くの場合、ネズミを捕食させるために放し飼いにされ(明治時代にはペスト予防のために猫を飼うことが政府によって奨励されたりもした)、猫が街中をうろうろしているのは当たり前だったのである。
放し飼いにされ、半野良状態で生かされるのが当たり前の状態が長く続いていたのに、日本人の生活様式が変化してくると野良猫といって嫌う人が増えた。その一方で、ペットブームが起こると逆に気軽に捨てられる猫が増えたりする。なんとも身勝手な人間の都合で、猫が野に放たれ悪者にされている。

生活様式の変化にともなって、猫も完全室飼いにしようというのが一つであり、不幸にして人間によって野に放たれてしまった猫とその子孫は、1代限りとして、せめてその生を全うさせてあげようというのが、適正管理あるいは地域猫の考え方だ。そして、元々半野良状態で地域に定着していた猫を、時代に合わせた形で再び受け入れるのが地域猫である。
地域に再び猫が受け容れられるための条件とは何か。実践的な部分では、まず増えすぎないように避妊去勢手術を実施することだし、餌場を清潔にし、可能な限り糞尿対策を施すことであろう。そして、橋渡し役のボランティアそのものが、地域に受け容れられるかどうかということは決定的な問題でもある。地域住民を啓発していくのは、ボランティアの真摯な活動の姿であって、理屈ではない。

人間とは不思議なもので、猫の世話をしている人間を不愉快に思うと、猫には何の罪もないのにその猫まで不愉快な存在に思えてくる。逆に、猫の世話をしている人間を受け容れると、その猫も受け容れた気持ちになる。「猫のトラブルは人間同士のトラブル」とは誰が言い始めた言葉なのかわからないが、それは、「猫が受け入れられることは人間が受け容れられること」でもある。

だから、地域猫は難しい。身勝手な人間社会の犠牲となっている野良猫の救済を一市民に過ぎないボランティアが全て担うのは余りにも荷が重く、行政による啓発やフォローは不可欠であるが、実践の部分ではボランティア以外に野良猫たちを救済できる者はいない。
地域の「合意」らしきものが得られて、猫の世話を引け目なくできる状態になるまでが大変であるが、それはまだ入り口で、地域で野良猫が許容され、地域で見守るというところまでいかないと、ボランティアだけがいつまでも必死になって活動をしなければならない。

偉そうなことを書いて叱られるかもしれないが、「餌を与えることができる状態」で自己満足していては、野良猫が本当に地域に許容され、共生する社会は実現されない。活動そのものに地域を巻き込んでいく。あるいは行政を動かしていく。そういう働きかけを経て「共生の街づくり」が実現していくであろうが、その取組みは真摯な活動を続けるボランティアにしか出来ない。
地域社会と野良猫との橋渡しはボランティアが担っている。大変なことではあるが、ボランティアの一挙一動に野良猫の未来がかかっている。活動そのもの、つまりボランティア自身が地域に受け入れられるように努めていただきたい。そして、地域や行政を動かしてほしい。不幸な猫を減らし、共生社会の実現のために頑張っておられるボランティアに、当ブログは最大限のエールを送り続ける。

【突然ですが、書籍の紹介】
「ノラネコの研究」文:伊澤 雅子、絵:平出 衛、福音館書店 1,365円

R0022179_2.jpg

1994年に発行された小学校中級向けの絵本であるが、ネット販売などで購入が可能。著者は哺乳類の研究が専門の琉球大学教授。
「アフリカの草原やアマゾンのジャングルへ行かなくても、動物の観察はできます。たとえば近所のノラネコ。」というような書き出しで始まるこの絵本は、「わたし」が野良猫の「ナオスケ」の後を追い、観察するという内容。
冒頭に、その街に住んでいる猫たちみんなに名前を付けてそれぞれの特徴を書いた「ネコカード」を作る、という作業が紹介されており、、これが野良猫を適正管理する上での作業と同じで妙な共感を覚える。
難しい言葉で書くと、同じ空間を時間差で共有している猫同士が偶然にも出会ってしまった場合にどのような行動をとるか、というような動物行動学的な内容まで精密なイラストとともにわかりやすく描かれている。

R0022179.jpg

子供が野良猫に興味を持つきかっけとなる良い絵本だと思う。いや、子供にだけ読ませるのはもったいない。
絵本の舞台は、九州の海辺の小さな町ということで田んぼや空き地があり、田舎ではあるが、都会の猫はどうしているのか。「わたし」に成り代わって観察してみるのも面白いだろうと思う。

(やがてつづく)


【ブログランキングに登録しました。よろしければ、クリックで応援をお願いします】
 
ある県の動物管理センターの所長は、「たとえ地域猫制度のある市の住民から、駆除目的で耳カットされた猫が持ち込まれたとしても引き取って殺処分する」と断言した。「地域猫は地域住民の合意を前提にするものだから、猫を迷惑に思う市民がいること自体が、その地域できちんと地域猫の取り組みができていない証拠だ」という。それはおかしいと抗議したが、一切、聞く耳を持たなかった。

ある市の地域猫制度は、ボランティアが町会長の判子をもらってきたらTNRの助成金を出すというものであるため、単にTNRの助成だけであるなら町会長の判子など不要だと担当課の課長に伝えたところ、「万一、外飼いの飼い猫を手術してしまった場合、行政は責任を持てないので地域合意は不可欠だ」と返答した。

また、別の市の担当課の課長は、「行政はTNRの手助けをするだけだ。地域猫は地域で取り組むべきものだから行政は関係がない。苦情があっても、地域で合意したのであるから地域で対応してもらわなければ困る」と発言した。

行政職員がよく口にする「地域の合意」とは一体何なのか。住民の100パーセントが合意することなど、まずあり得ない、住民全員に逐一聞いて回ること自体がほとんど不可能である。それでは、住民の何割が地域猫活動に賛成すれば合意なのか。8割なのか、5割なのか、3割なのか?

町会長の判子があれば助成金を出すという制度では、町会長の合意書への署名捺印をもって地域の合意としている。しかし、あくまで町会長の個人的な判断によるものがほとんどで、猫ぎらいな町会長であればその町会長がいる限り、「地域合意」が得られないことになる。逆に、町会長が推進派であれば、地域に強力な反対者がいたとしても簡単に「地域合意」が得られることになる。そして、それらが後々、住民間の軋轢を生む事態に発展することがあるのだ。

町会の会合を開き、賛否を問うて実質的な「地域合意」を得ればよいという意見がある。ごもっともであり、それは理想だ。全ての地域猫活動は、そのように多くの地域住民を巻き込み、問題意識を共有することが大切だ。だが、そういう取組みは非常に時間がかかる。町会の会合で賛意を得られるまで、行政が地域猫活動として認めないとかTNRの助成金を出さないというのであれば、実質的な地域猫の取組みは一向に進まず、その間にどんどんと猫が繁殖してしまうだろう。

「地域猫とは地域の合意を前提としている」ということが強調されるあまり、「地域の合意がなかったら猫に餌を与えてはいけない」という誤った認識が広まっている。自治体によっては、行政自体が「地域の合意を得ないで猫に餌を与えないでください」などという看板を設置するなどしている。これは従来の「餌やり禁止看板」となんら変わることがない。

繰り返し書いていることであるが、野良猫に餌を与えるのに、地域の合意は要らない。ただし、地域の合意や理解を将来的に得られるような餌の与え方をしなくてはいけない。具体的には、避妊去勢手術をすること、置き餌をしないこと、餌場周辺の清掃を行うこと、という適正管理をすることだ。個人的に野良猫の適正管理をしている人が地道な努力を続け、その活動が地域に広まっていくのが地域猫である。

行政職員の地域猫と地域合意に関する認識は多くの場合、間違っている。町会長の「許し」を得た一部のボランティアが自分たちだけで必死になってTNRをして猫を世話をする。そういう状態が地域猫か?
違う。それは一部の個人的な適正管理の活動に理解が得られたというだけのことで、地域住民の取組みとは言えないだろう。ようやく、その入り口に立ったという段階だ。
個人で適正に野良猫を管理しようという奇特なボランティアの活動を尊重することなくして、地域猫の活動が広がることはない。地域猫とは極めて高度な地域活動である。ある日突然にぱっと何らかの住民合意がされ、ぱっと地域猫活動が始まるなどということはあり得ない。個人の適正な活動の積み重ねが基本である。そういう適正管理を個人だけでなく地域として取組もうというのが地域合意の中身であって、個人ボランティアの活動を認めてあげるというのが地域合意ではない。

行政はまず、個人の適正管理活動を肯定し、それを推奨するところから始めないといけない。いいかげんな餌やり行為者は確かに多いが、それを適正管理に向かうように指導しなければならない。
行政の本音はわかっている。苦情対応をしたくないのだ。しかし、猫に餌を与えること自体が悪いことだという風潮を放置しているから、いつまでたっても苦情が絶えない。公園の不毛な「餌やり禁止看板」と同じことになる。適正管理をスタンダードなものにしていくことが必要だ。

そのために、行政自体が、適正な猫の管理は禁止されるものではなく公益的な活動である、と宣言する必要があるだろう。そして、適正管理が地域としての取組みとなるように手助けしていくのが行政の仕事だ。地域合意ありきではいけない。地域合意はそんなに安直なものではない。

(いつの日か続く)


【ブログランキングに登録しました。よろしければ、クリックで応援をお願いします】
 
街角の公園で「猫の餌やり禁止」という看板を見ると少々悲しくなる。まずは、猫問題で困っている住民の姿が想像されるが、同時に、禁止看板を立てることしか思い浮かばない公園管理者の発想の貧しさや行政としての総合力の欠如を感じてしまう。

通常、「餌やり禁止看板」は行政のアリバイ作りだ。
餌やりに対する苦情がきました => 公園管理事務所は禁止看板を立てました => おしまい。
あとは、餌やり反対派が餌やりをつかまえ、「餌やり禁止って書いてあるだろう!」と文句をいい、住民同士の不毛なバトルが展開される。行政が進んで関与することはない。禁止看板で問題が深刻化したり潜在化することはあっても、それで問題が根本的に解決したという話は聞かない。禁止看板で問題が解決するならば、とっくの昔に猫問題は解消している。

少し前のこと。ある中核都市の公園課の課長さんとお話をした。公園の「餌やり禁止看板」を外してほしいというボランティアさんの訴えに対して、課長さんは、
「関係法令で公園を汚損することや迷惑行為を禁止している。餌やりは行為は違法であり認められない」
と答えた。これは、多くの意味で間違いだ。

まず、公園の汚損についていえば、餌やり行為そのものは汚損行為にならない。また、都市公園法などの公園関係法令に「迷惑行為」という具体性に欠けたものをひとくくりに禁止する条文は存在しない。そもそも何が迷惑行為なのか曖昧過ぎて、自治体の公園条例でもそんな条文は書きようがない。

法律の条文云々よりも深刻なのは、「餌やり行為=迷惑行為」という、一方的な思い込みだ。そういう思い込みは一般市民にも強く、理解を得るのが適正管理活動や地域猫活動の大きな課題だ。しかし、役人が同じような感覚ではいけない。まして、違法行為だと決めつけるのは大変に問題がある。

課長さんは、ようやく、
「地域が合意して、町会長から依頼があれば餌やり禁止の看板を外すかどうか検討する」
ということを言った。ただし、町会長のハンコだけではだめで住民全員の総意が必要だという。

こういう時は言うべきことを言わないといけない。
地域住民の総意があれば認めるというのであれば、最初から法令による禁止はされていないということを自らお認めになっているんじゃないですか。公園の「餌やり禁止看板」には法的拘束力がなく、任意の協力を求める行政指導でしかない。しかも誤った法解釈による行政指導であって、我々はそんな看板は無視しても差し支えない。そのように理解しても構わないですね?

そこまでいうと、課長さんは、
「猫の糞害で迷惑をしている住民がたくさんおられるんだ!」
と大声で言った。

公園課の課長さんの言い分もわからないことはない。公園を管理する立場からすると、ねこへの給餌行為は苦情の原因となりやすく、段ボール箱の無断設置や糞尿による悪臭、汚損の発生などで公園の維持管理に支障をきたす。公園で餌やりをさせているから、近所の家の庭で猫が糞をするという苦情もくる。そういう苦情を繰り返し受け続けてきた公園管理者にとって、猫の餌やりほど、迷惑極まる行為はないのだ。

だけど、そういう「迷惑な餌やり行為」と今やっている適正管理活動とは中身が全然違う。
ほっておいても、猫の避妊去勢手術をしてくれ、掃除までしてくれるボランティアをどうして行政はうまく使えないのか。
野良猫の適正管理は、清掃活動と同じで公益性を持っている。公園は自由使用が原則であり、公益に反しない限り、公園管理事務所の許可や地域の合意は不要である
もちろん、地域が一緒になって猫を適正に管理する形が理想であり、目指すべき方向ではあるが、その前段階で行政が「餌やり行為そのものが違法」だと言っていたら、地域合意が進むわけがない。

公園管理事務所は、「法に照らして、公園の汚損になるような置き餌は禁止するけれども、個人の餌やり行為そのものは禁止していない。その上で、地域として適正管理活動に取り組むかどうかは、地域の判断である」という立場でないと、地域活動そのものを不当に阻害することになる。公園管理事務所がニュートラルな立場になった上で、住民の合意形成については、地域猫制度を持つ動物管理センターが制度の趣旨に従ってフォローしていく。あるいは、街づくりの担当部署が地域の取り組みをフォローしていく。そういったことが、行政としての総合力の問題である。

結局、その日は課長さんの「お持ち帰り」ということになった。行政をやりこみることが目的ではないので、これからも話し合いを続けていく。

(いつか続く)


【ブログランキングに登録しました。よろしければ、クリックで応援をお願いします】
 
前回の続き

行政を動かすためには、行政を叩いているだけではダメだ。
市民と行政との関係は、依然として「要求する側」と「要求を受ける側」であることが多い。市民の要求を受けた行政の反応は、「受け入れる」か「聞き流す」かのどちらかである。
これだけの関係では、要求が受け入れられなかった場合、市民と行政が対立し、互いの不信感を増幅させるだけのことになってしまう。
「税金を払っているのだから、要求に応えて行政が動くのが当たり前だ」という立場もあるが、それでは地域に根差した活動は進まない。

以前に書いた内容と何度も重なるが、これからしようとする活動、あるいは現在続けている活動が、どれだけ地域や行政にとってメリットがあるのかということを理解してもらい、互いに歩み寄る関係になることが大切だ。それを裏付けるために、真摯な活動の積み重ねが不可欠である。

もちろん、行政が頑なに扉を開こうとしない場合もある。やむを得ず、行政と対立する場面もある。
市民と行政の関係は、「行政主導、対立、宥和、協働」へと変化していくもので、それぞれの段階での具体的なアプローチがある。
しかし、どの段階でも「行政の立場も理解してあげる」「実績を積み上げる」ということが大切で、これを抜きにしてどんな「テクニック」を駆使しても通用しない。

遅々とした歩みのようにも見えるが、近年の動物愛護活動を取り巻く環境は、10年、20年前に比べると相当に良くなったというのは実感である。
それは、先人たちの、献身的で真摯な活動の積み重ねの結果だ。それが、今回の動物愛護法の改正にも、十分とは言えないまでも反映されている。

小手先の「テクニック」は色々とある。しかし、基本となるのは、日常の活動の積み重ねを前提に、互いの立場を尊重しながら、行政との協働あるいは地域参加に向けての話合いを進めていくことだ。そして、残念なことに途中で諦めてしまう人が非常に多いのだが、決して諦めないでほしい。
そうすると、徐々に、あるいはある時期をきっかけに、状況が変化してしまうということを自分は何度も見ている。世の中を変えるということは、そういうことの積み重ねである。

(いつか続く)


【ブログランキングに登録しました。よろしければ、クリックで応援をお願いします】